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小木曽
四世講長から「小木曽の親父」と呼ばれ知多の桑山隆顕と
共に開基講総本部顧問を勤めた小木曽橿蔵東部教務庁長


木曾御嶽本教立教7人衆

木曾御嶽本教を創立した鈴木忠義と共に、立教当初から参画をした7人の教師を「立教7人衆」と呼んでいた。

  大教正総監 加藤銀太郎  愛知県  心願講総本部
  大教正総監 市川 みわ   愛知県  不動教会総本部
  大教正総監 小木曽橿蔵  愛知県  真心教会本部
  大教正総監 松浦利九郎  徳島県  福寿教会総本部
  大教正総監 桑山 隆顕   愛知県  宝栄教会本部
  大教正総監 川口 覚導   愛知県  心願講総本部
   教正総監  丹羽 源明   愛知県  太平教会本部


本教の名付け親
立教も目途が立ったが教派の名称はどんなもんだ!」小木曽橿蔵(写真)に訊ねた鈴木忠義に向かい「木曾御嶽本教ではどうか」と、小木曽が答えたと云う。暫く考えていた鈴木忠義は「よし!それで行こうか」と笑顔を見せた。小木曽は「木曾御嶽本教の創立者は鈴木源であるが、本教の名付け親は不肖、小木曽橿蔵・源普明である」と言うのが口癖であった。病弱で在った小木曽は本教の要職に就く事も無く、鈴木忠義を影で支えた一代で在った。木曾御嶽本教教学部長補佐、愛知県東部教務庁長、総本庁調査室員、賞罰委員等を務め昭和55年2月18日帰幽、開基講総本部四世講長祭主により神葬祭が斎行され、武居操、川口覚導、加藤銀太郎、横地恒吉、岡野良一、新実淳一郎等の本教幹部が参列をされた。

素足で通した女傑
「金が少しく要るそうだが!」申訳無さそうに呟く桑山隆顕内事部長秘書を見遣った市川みわは、小さく頷くと、祝儀袋の束を鷲掴みにして桑山に渡すを常として居たと云う。知多郡東浦町緒川で、不動教会総本部の開祖として、近郷近在の御嶽信徒等から崇敬をされる市川みわは、一年を素足で通した偉丈夫で在った。実子の無かった市川は鈴木忠義を不動教会の後継者にと考えて居た時期も在ったと伝えられて居るが、復員をして、本教創立に突き進んだ鈴木忠義に対し、慈母の如く想いを持って援助を続けた「緒川のばあさん無くば、立教は3年、5年は遅れた」と鈴木忠義は述懐をして居る女性にして唯一本教責任役員に就任し顧問と為った市川は、本教の最高位にも就いて居る。昭和40年3月20日鈴木忠義忽然と帰幽をされるので在るが、その日は市川みわ刀自命(大先達三輪不動之命)の10年祭を迎えるに当り、管長を招請して愛知県東部教務庁管内教会主管者等の奉仕に依る、霊祭の打ち合わせ会を開催して居た席上で倒れたので在り、市川との奇しき因縁を想うので在る。

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    木曾御嶽本教直轄不動教会総本部開祖
          大教正総監・大先達 市川みわ

御嶽に生まれ御嶽に帰る
全国屈指の御嶽講社、明栄講と並んで一大教勢を誇る一方の雄が、愛知郡長久手町岩作に本祠殿を置く心願講である。加藤銀太郎は十代で御嶽行者の道を志し、19歳で御嶽太神の法力を受けたと謂われ、戦後に於ける心願講の総帥として心願講一門の先頭に立って居た。鈴木忠義より木曾御嶽本教創立の相談は、早い時期から受けて居た様で、愛知県一円に跨り、多くの枝葉を持つ心願講を纏めて、創立後2ヶ月間の内に、所属支部、教師の本教への転派を遣ってのけた人望は、並みのものでは無かったと想われる「教師の名前や顔等、知りゃせん者も多くてなモ」独特の名古屋弁で四世講長に語る加藤は、好々爺とした人で在った。昭和22年に本教が出版協会を設立して「御遺歴を尋ねて」と題した教本を出版した。この教本は、愛知出生組総本部が、当時秘蔵をして居たもので、覚明霊神、普寛霊神の一代記をお歌読みとして、全国の教会講社へ本教制定の教本としたのである。鈴木忠義と共に編纂に携わった加藤が「御嶽に生まれ、御嶽に育ち、御嶽に帰る心願」とした教歌を披露したと謂われる。この教歌は、今日も本教の教条の柱の一つとして、多くの信徒等が口にするのであるが、一説に依れば、当代一流の座人と謂われた、加藤の御座に依る、託宣歌とも言われて居る。昭和24年の秋、戦前の神道13派連合に依る、立教阻止を撥ね付けた総本庁幹部等は、管長揮毫の「確古不動」を中心にして其々が寄せ書きをした、加藤は当然の如く「御嶽に生まれ御嶽に帰る心願」と認めた。この色紙は川口覚導が預り、後に旧総本庁玄関脇に銅版に起こされて建てられ、立教当時の労苦を偲ぶとされたので在る。立教創生期から物心両面で鈴木忠義を補佐した加藤は、本教責任役員、総本庁財務部長、社会課長等の要職を歴任して昭和59年1月3日に帰幽をされた。

本教の語り部
「誰の教派だ!誰の御蔭で管長に成れた!」憮然として座る桑山隆顕内事部長秘書を怪訝そうに皆が見遣った。木曾御嶽本教に対して、包括団体としての文部大臣の認証が出たので、上京して認証書を受け取るとしたので在るが、当時の総本庁は旅費を支弁する事が出来なかったと云う。そこで鈴木忠義内事部長の意を受けた桑山が、武居誠管長に義務金等が入るまで、当座の借用を申し入れたので在る。「本教に貸した処で、返る見込みは無い!」他人ごとの様に呟く管長に業を煮やした桑山で在った。話を聞かれた管長の御母堂が健在で在られ「御世話を御掛けします」と慎ましく頭を下げられ、当時のお金で1万円を桑山に渡されたので在る。そうして工面をした旅費で上京した鈴木忠義は、東京駅で茨城県の結城巴講の柳田守常講社長と待ち合わせて、文部省に赴いたので在る。知多市大草に宝栄講を構える桑山は、僧籍を持った本教教師で在った。女性的な物腰で常には柔和な人物だが、頑固一徹な気丈夫な面も持ち合わせ、一度決めたら頑として、他に譲らないとした事も在った。四世講長とも新任教位の収得で意見を違いとして、双方が3年余に渡り出入りを禁じた場面も在ったので在る。昭和30年代の後半に至り、本教の教勢も中弛みとなるや「これからは、若い教師を育てなくては成らない」と、後継管長とされた武居重明を総本庁の陣頭に立たせるとして、鈴木忠義、武居操に進言し、教学部長として総本庁入りを勧め、教学部長補佐に小木曽を送り込む等して、先見性の在る面も見せた。覚明霊神碑大鳥居の前で斎行されて居た、祖霊大祭招魂の儀では常に燈明係りを受け持ち、暗闇の中を大石碑によじ登り、灯を切らす事なく奉仕を続けた。木曾御嶽本教参与、総本庁調度営繕課長兼内事部長秘書を勤め、昭和56年1月13 日帰幽をされたので在るが、管長代理として葬儀に参列をした武居総務部長より、四世講長に桑山隆顕(大先達光導霊神)の霊前弔辞の依頼があり、これをしたため武居総務が奏したので在る。桑山の口癖は「親先生は、言いにくい事は総て俺に言わせたワ」で在ったが、本教立教当時の経緯や、エピソード等を事在る毎に、四世講長に仔細に語り伝えた人で在った。
源霊神銅像に供奉した桑山隆顕銅像
当時内事部長秘書兼営繕課長に在った桑山隆顕は鈴木忠義に代わり源霊神銅像に供奉をして登山をした。
隣に座すは銅像製作に当った無名時代の鈴木基弘(岡崎市花崗町出身)


鞄持ち一代
親先生の鞄持ちをして、全国を歩いた御蔭で、こうして本庁で生かさせて貰って居ります。有難い事です。」折々に開基講総本部を尋ねる川口覚導は、鈴木忠義未亡人の手を取り、涙を浮かべるのが常で在った。昭和40年代後半から50年代に掛けて、木曾御嶽本教は大いなる教勢の進捗を見た。所属教師7.000名、包括教会講社450本(仔細な数字は本教50年の歩みに表記されている)と、時の総本庁事務長川口覚導は豪語し「御嶽教を遥かに凌駕した」と胸を張ったので在る。心願講に所属をして居た川口は、愛知県瀬戸市の出身で在る。木曾御嶽本教創立に奔走する鈴木忠義に見出され、妻子を瀬戸に残して単身総本庁に身を投じ、事務方を一人で取り仕切り「川口無くば夜も明けぬ本教、管長を知らずとも川口を知れ」等と謂われ、傲慢不遜の振舞いも時には在ったが、総本庁の顔として在った川口は、立教当初から、鈴木忠義の鞄持ちとして全国を行脚し、本教への転派を説いて回ったので在る。白紙の辞令用紙を鞄に詰め込んだ川口は、鈴木忠義の指示の元に、転派する教師等に対して、旧教派より高位の教位を目の前で書いて渡したと云う。川口は、一度逢った教師信徒の顔は、決して忘れないと勤め、全国の教会、講社の内部事情に誰よりも精通し、末端教師に至るまで把握をして居た。多くの教会、講社長等は、川口の顔見たさに、総本庁に立ち寄るのを常として居た。安定期に入った本教の教務を取り仕切った川口は、総本庁事務長、教務部長、総務部長秘書兼庶務課長、経理課長等の事務方の要職を務め、昭和56年8月30日、家族等に看取られる事無く、三岳村の下宿先で帰幽をされたが、其の半生は、将に木曾御嶽本教に捨身したと云えるので在ろう。善し悪しは兎も角、一度は総本庁のトップで在る、総務部長(教務総長とした時期も在る)と呼んで挙げたい人で在った。昭和40年、17歳で開基講総本部を継承した四世講長を「立ちゃん、立ちゃん」と呼び親しんだ川口が、「俺、今度なァ!心願講の副講社長に為ったでな」と嬉しそうな顔をした事が在ったが、晩年の川口も、やはり人の子である、望郷の想いに駆られて居たので在ろう。


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木曾御嶽本教総本庁事務長・教務部長・経理課長・庶務課長 
大教正総監・大先達川口覚導


丹羽源明(大先達源明霊神、昭和26年3月28日帰幽)松浦利九郎(大先達白明霊神、昭和43年9月21日帰幽)とは、直接にお会いをした事が無く、御本人等より本教創立当時の逸話等に接する機会が無かった事は誠に残念な事でしたが、現存をされていた他の方々より御両者に関るエピソード等は聞き及ぶ事が出来ました。
  開基講總本部御霊場 御霊場

昭和24年木曾御嶽本教総本庁内事部長に在った鈴木忠義は、開基講二世講長・大先達源霊神の銅像を黒沢口9合目・石室の下の岩場に建立し、其の遷座開眼式の祭主に、頂上の祈祷所に上げて居た腹心の丹羽源明に奉仕させた。写真の最上段に鈴木忠義と並ぶ丹羽源明、前列から三人目辺りには日野製薬の日野文平の若かりし頃の姿も見える。

丹羽源明は愛知県名古屋市の出身で、大平教会の主管者を勤めて居たが、鈴木忠義の本教立教に当初から参画をされ、鈴木源(鈴木忠義は教名を源と号していた)の分身として活動し、立教当初から頂上祈祷所の責任者として奉仕を続けた。「木曽御嶽本教に所属の教会、講社は、頂上正面で御参拝を下さい。他の方々は正面を空けて戴きます。」夏山登山で混雑をする頂上参拝で、多数の講社が入り混じり、怒号も飛び交う中、丹羽は平然として、本教所属講社を優先し、頂上参拝をさせたと云う「御嶽神社直属の本教と云う事を知らしめよ」鈴木忠義の指示を受けての事で在ったが、他教派からの反発も大きい中で、丹羽は一人頂上で頑張ったのである。昭和24年に開基講二世講長・大先達源霊神の銅像が、黒沢口9合目、石室の下に、建立遷座された折には祭主を務めたのである。

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           木曾御嶽本教総本庁内事部長秘書・頂上祈祷所長
            教正総監 大先達 丹羽源明


四国の地には昔から御嶽信仰者も多く、有力な講社も点在をして居た。木曽御嶽本教創立に当たり、四国の教会、講社の取り込みに、奔走した当時の本教幹部等が、杖とも頼り四国に上陸したのが、徳島県の白川福寿教会総本部の松浦利九郎宅で在ったと云う。松浦宅を拠点として、四国行脚をし本教への転派を推し進め、今日の四国大教区の礎が構築されたので在り、その功は松浦に係るので在ろう。現存者等からのエピソードの中に、巡教の寸暇を得て、草競馬に招待を受けた事、総本庁にまで四国芸者に追い駆けられ、千秋閣の押入れに隠れ、事情を把握して居なかった加藤銀太郎に、対応させた事などが語られている。


「立教7人衆」とは、彼らが勝手に言って居たのかも知れないが、其々が木曽御嶽本教に掛けた熱情は大いに想像が出来、今日に至る本教を見れば、其の功積は飛び抜けて大なるものが在ろう。これらの人々の外にも「俺は鈴木源の用心棒」と言って憚らなかった、前歴は東京浅草のやくざ上がりで、花札を引かせれば、まぼろしの信太と異名を取ったいう小川信源や、御嶽神社の御由来記を何時の間にか諳んじて、御座と称して滔々と語った竹島松鶴、初代管長の前掛け姿に激怒して「一教一派の管長公が何たる無様な格好よ」と吐き捨て、鈴木忠義に叱責をされたと云う愛知日の出講の渡辺倉次郎等、立教当時には型破りな教師等も数多居た様で、彼等が語った語録は木曽御嶽本教創立の裏話として一冊の本にも為るで在ろう。文中に於ける敬称は総て省略をさせて戴きました。
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2010.09.13 / Top↑
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